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「裸形のデザイン」覚え書き

1953年、ロバート・ラウシェンバーグが、ウィレム・デ・クーニングの油彩を、
6週間かけて擦り消してしまった。

ジュゼッペ・ペノーネは、製材された木材から、ドリル、ノミ、ガラス片を用いて
本来の樹木の形を再生する試みをしている。


既にあるものを直していくということ。


「裸形のデザイン」では、道具の表面のペンキや、エンボスを削っている。
ペノーネは、造船のために用意された角材などを削っていく途中で、
その樹木の成長や育った環境、性格などを知る、と話している。

人が創作した無機物である道具でも、凹んだり、失われた部品を補修したり、
表面や、機能には関係のない部分を削っていく行為、
つまり時計の針を逆に回すことで、それらの本来の目的を探すことになる。
創造主が描いたエスキース、デッサンのレベルまでその品を還元するということ。




<かならずしも>装飾が罪悪(醜悪)でシンプルな形態が正しい(美しい)わけではない。


創世記から、建築や衣類、道具…人が創り出してきたモノの表面は、
すべて「おふれ(御布令)」つまりメディアであった。
カラーリング、文様、形態には、すべて意味があり
その統治者からの宣伝を纏っていた。
近代社会、王制から民主主義社会に以降し、
沢山の紙のメディアが生まれると、建築や衣服、道具類にその意匠は必要なくなっていく。
そうして、おふれと乖離したモノ作りが始まる。
耐性を高めるための塗装や、構造は、住空間、都市での人工の自然を創り出す技術の進歩により、
柔らかなものになっていくだろう。



沢山のメディアに囲まれた中で暮らしてる。
365日終日、一歩外にでると様々なサービスを享受でき、
部屋に居ながらにしてスイッチを押すだけで、世界中の最新にアップデートされた映像や音楽、
情報を光速で手に入れられる現在。


しかしながら脳のメモリー、キャパシティは、限られていると思う。
絢爛豪華は、一歩外に出れば享受できる。
相対的に、自らの部屋を占有するモノは飽きがこず、
シンプルでリフレクションしないマットなものを選びたい。



澄 敬一