むかしむかし、
民が見習うセンスの源は、王様やお妃の洋服や調度品であった。
80年代、元エディターや、スタイリストが、ファッション・デザイナーになる。
自ら選んだ古い作業着や、廉価品に手を加えて、今日的センスに仕立て直し量産する。
美術館へ行き、現代美術を嗜み、それらも生活やデザインに取り入れるということ。
当時の欧米は不景気で、ファッションやインテリアにかける支出も抑えるため、
賢くスリフト・ショップやフリーマーケットで家具などを見つけて上手くスタイリングする、
「在るものでなんとかする」という考え、センスやスタイリングは、インテリアの世界へ波及した。
フランスのインテリア誌「メゾン・ド・マリクレール」が「マリクレール・メゾン」に
変わったのはたしか1990年(91年?)
90年に入ってからの「マリクレール・メゾン」ブリティッシュ版「エル・デコ」。
それまでのインテリア誌と違ったのは、率先して(マイナーの)アーティストのアトリエを
紹介し始めたということ、そしてもう一つは、フラッシュを用いず、
自然光で撮影するページが増えたことであろう。
それから暫くして日本のメディアもそれに追随する。
今でも生活系雑誌を開けば、なんと窓際の自然光の写真が多いことか。
これは、擬人観の一つの例であろう。
従来の製品カタログではなく、これはまるでポートレイトである。
洋服に限らず、国外で作った量産品は、どんどん値段を下げる。
それと対して、いかにこの製品は丁寧に手作業で大切に作られたものかを表明するために、
それらの製品のデモンストレーション、カタログは、廃校や、アトリエなどまるで
家内制手工業を彷彿させるかのような設えを背景に持ってくる。
合わせて、人工照明から自然光での撮影への移行は、読者のモノの質感に対する基準を
変えることになった。
アーティストの作品だけでは無く、アトリエとアーティスト自身をもそれに重ね合わせたのは、
ドイツ、ケルン市にあるヴァルラフ・リヒャルツ美術館が、1969年から71年に発表した
カタログにみられた。
その後も美術館での閲覧ではなく、アーティストのアトリエで
作品を閲覧する、「アトリエと作品」という試みも始まった。
「作品」だけではなく、それを制作、発想の源になった、もしくは触媒となったメディアも
一緒に見て欲しいということである。
こういう展示方法は、その昔はありえないことであった。
「手法」や「材料」、「工房」は秘密であり、固着した完成品のみを(手が触れないように)
別な場所にて紹介するのが常套である。
[
写真家のHANS NAMUTHは、ポロック、アルバース、ボイス、コーネル、クーニング、
ニューマン…etcなどの現代美術家のポートレイト写真を彼等のアトリエで撮影した。
彼の写真は、芸術作品とそれをとりまく、配置された(作品ではない)オブジェクトとの関連を表出した。
]
1986年 「シャンブル・ダミ展」
これは、ゲント美術館のヤン・フートが、キュレーションした展覧会。
ゲントにある普通の一軒家やアパートの一室を借りて、そこにアーティストが作品を配置したり、
インスタレーションをするという、見慣れた室内に見慣れない作品という、
無関係と思われるものとの組み合わせ、異質馴化、脱美術館という試みであった。
1997年には、ブリティッシュ版エル・デコで、「クリエイティブ・スペース」という特集をした。
マックイーン、ジョセフ、ラクロワ、A.P.C、マルジェラなどのアトリエを紹介している。
「世界は写真を撮られるためにある」と言ったのは、スーザン・ソンタグだった。
十数年前には、これほどインターネットは普及していなかった。
しかし今、価格や企業情報はもちろん、数年前から開始された YouTubeやTwitterでは、
アーティストや作家、デザイナー、アート・ディレクターなどのレポートや制作風景、
コンセプト、生の声や画像をリアルタイムで視聴することが出来る。
美術館、博物館、図書館、本屋にも行かずして、アーカイブを開くことが出来る。
これは喜んでいいことなのだろうか?
今までずっと秘匿してきたことや、時間をかけて美しくレイアウト、トリミングされた情報が、
整理整頓もされずに、簡単につぶやかれて表に出て来てしまう、それも足下からだ。
そして、当時の社会的特性や、宗教観などを無視した「見立て」「オマージュ」
「リヴァイヴァル」「リスペクト」と呼ぶエピゴーネンが乱作される。
デザインや作品も、コピペすることも多くなっているのだろう。
老舗や元祖は、試行錯誤の上に発見、発明した作品や製品を、それらと同列にならべられないよう
「外的特性」を歌い上げなければならない。
…
澄 敬一