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「裸形のデザインの行方」を含めたまとまりのない話

30年前、17歳。
夜は工業高校へ、昼間は「道路拡幅に伴う支障物件調査」を業務とするコンサルタント会社で、アルバイトをしていた。
国道など、道路を拡幅するために支障になる建物や工作物などを現地におもむき調査して、
それらを図面化して、保証金額を算定するという仕事である。


先輩に連れられ車で向かった先にあるのは、
ガソリンスタンドの地下埋設タンクや、サイン塔、電信柱、手作りのブリキの看板、バス停留所の待ち合い小屋、
納屋らしき掘ったて小屋…etc


建てられてから数十年が経ったものもあれば未だ新しいものまで様々。
木造の小屋や看板が斜めに傾いている、土台が腐って失われている、あったはずの建具が無い…
それを写真に撮り、実測し、事務所に戻ってからその通り現状のまま図面化する。


夜間は、建築科の授業で初めて知った、ライト、コルビュジェ、ミース、そしてジュゼッペ・テラーニなどの仕事に魅了され
その作品のスケッチをし、昼間は、それとは相反する土着というか風俗的な工作物の図面をおこしていた。   

それから数年して原広司による住居集合論、を読み、中近東の修道院の廃墟、キリスト教集落への関心が高まって、実際に幾つかの
廃墟を訪れてみた。考現学今和次郎という存在を知ったのはそれから10年後である。




昨年末、東京国際フォーラムの骨董市で友人が、「裸形のデザイン」を販売して下さった。
挨拶に寄ったその時ちょうど、欧米人と思われる男性が、
「裸形のデザイン」を購入していた。
その方は、欧州のとある博物館の館長であった。


そして一年後。
先日終了した、無印良品有楽町店/アトリエ・ムジで行われた
「裸形のデザイン展」に、彼は訪れた。
そして、欧州での「ある展示」に協力して欲しいと打診してきた。






鉄、銅、真鍮製であった薬缶、漆塗りの根来盆、革製品の鞄、陶製の器…
本来は、アルミニウム製では無く、個々それぞれにあった素材を用いて出来上がった伝統的な道具である。


20世紀になってからのモダニズムという運動で新たに作られたインターナショナル・デザインという物差しで計っても
美しいと感じるメイド・イン・ジャパンがある。
しかしそれらの多くは、美術館、博物館などのショーケースの中にあり、
実は簡単に手に取ることが出来ないのである。


アルミニウムで作られた戦前戦後すぐの量産品は、
デザインという言葉が生まれる前に製造されたものであり、
そして前時代のフォルムを素材は違えど踏襲したものなのだ。
それでも完全なコピーにはならない。
それは、「アルミは真鍮、銅や鉄に比べて見劣りする」という理由
からグレードを上げる為に表面に施された文様や、飾り塗装が施されているのである。
それら機能には関係ない装飾を削り落とす。
ヤスリで削られた表面は、平滑では無い。そしてそれは工業製品で言えば「未完成」の状態である。
(実は、その「未完成」がモダニズムの本質ではある)


レンズを磨くように平滑に仕上げられた製品群の中で現代人は暮らしている。
量産品と手作り、デザインとクラフトの違いの一つ、区別する見分け方のひとつには、
そんな表面にもある。
工場のオートメーションの作業で作られた平滑で定規をあてたようなフォルムの作品を、人の脳で
データーとして処理した場合、例えばそれを基準とすると、手作業で一つ一つ作り上げたもの、
製造の過程が見えるような作品は、その数十倍のデーターを与えるのだろう。
複雑な表面は「脳が喜ぶ」というらしい。
余計な飾りを外し、裸にする、そこからアーキタイプ/原型を見つけ出す。



「より少ないことは、退屈である」と言ったのは、ロバート・ベンチューリであった。
「シンプル」は、白と同義語では無いが、色にすると「白」
20世紀モダニスムが生み出した世界は、
生物学でいう「アルビノ種」に近いものなのかも知れない。
生物の今とデザインの今、キメラ、遺伝子疾患のものは短命である。

イコンを排除したインターナショナル・デザインは、
教育を受けた者なら何処の誰もが使える製品である。
今日では、地方に行っても都会と差異がないショップやサービスが用意されている。
最近、家電量販店で目にする電化製品のデザインを見ると、これらは果たして日本人の生活にあったものなのだろうか?
海外への輸出を視野に入れたデザインではないのか?
と思ってしまう。


表現の神はいづこに。


デザイナーは、誰に褒めてもらいたいのか?




日本で、NYのクーパー・ヒューイット国立デザイン美術館に比較されるところは、
あるのだろうか?
そもそも日本のナショナル・デザインとは、なんだろう?
地方の因習、言語…が東京と同じように均質化され、東京は、「世界標準」に同化する。
それが世界中に広まった後には、日本はもう無い。



世界中のモノが手軽に手に入るようになった。
マリメッコのポスターを壁に掛け、工場で使われた鋼製棚には、18世紀フランスのポタリーや、
ペンギンブックスが配置され、イームズのシェルチェアに座り、オールドパインのテーブルで、
ご飯と焼き魚、カレーでもパスタでもいい…を食べている日本人。
50's、北欧風、南仏風、アトリエ風…etc では無くすべて和風だろう。
どうがんばってもスウェーデン人や、フランス人にはなれない。


パリ、ロンドン、NY…で買い付けたモノを並べて店を作ったことがあった。
海外での買い付けは大変だった、でもそれはもう過去の話。今それをすることは容易に出来る時代。




…欧米人に笑われているのを知っているのだろうか?






「どのようなものが(恒久的に)芸術作品なのか」ではなくて
「あるものが芸術作品であるのはいかなる場合なのか」



ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」菅野盾樹 訳 ちくま学芸文庫

画家を妻とし、みずからも画廊を経営した哲学者のグッドマン教授は、
著作の中で「いつ藝術なのか」について述べている。

<ある絵がメトロポリタン美術館にあるということ、
それがダルースで描かれたこと、
(描かれてから)メトセラほど年月を重ねていないこと>

これらは、絵の主題の話では無く、それを取り巻く環境などの
「外的特性」のことである。

芸術もデザインも、外的特性を含めた上で評価される。




年老いたクリスチーナをワイエスが描いた絵は、ロックフェラーのNYの邸宅の居間に
掛けられている。マイノリティージェンダー、どんな社会的な主題を扱った作品であれ、
(デザインも芸術も)、「室内装飾」である。




ハイ・センスってなんだろう。
「センスが良い」とは誰が決めるもの?
都会では、「…(でも)センスが無いよね」となればお終い?


ハイ・センス?Highly Sensitive Person?幻視者?


欧米のアート・ディレクターが、先ずメディアに発表し、
追随して日本のアート・ディレクターがそれをまねしている?

メディアは、お金を持っている企業に従属している?
コングロマリット、LVMHなどのユダヤ資本の広告費で
成立するファッション誌やインターネット・メディア。
彼等に従う特集を組まなければ廃刊する?



「デザイン系学校」は、デザイナーを育てるのでは無く、
「デザインを買う人びと」を育てている。




ギャラリーは、デザイン・ショップは、「商売」なのか「表現」なのか?
デザイナーや芸術家、またはそれを媒介するディレクターは、どのような生活をしているのだろうか?
自分が生み出した、世に出した製品/作品を身の回りに取り入れているのだろうか?
美術館のような、整理整頓された生活、もしくはドナルド・ジャッドの箱のような住処。
いつまでも汚れなく、劣化もしない、ゴミにならない、ゴミを出さない世界。
それとも自らが送り出したゴミに囲まれている?



「ノーマル」という最大公約数から生まれたデザインは、「毒にも薬にもならない」。



ドローグ・デザインの功罪は、「芸術がデザインに、デザインが芸術になりうる、そしてそのどちらをも不要にしたこと」である。
トマト以降、コンピュータは扱えるが絵が描けない日本人にとって、
ドローグ・デザインの台頭は、喜んで受け入れられたのだと思う。
「王様のアイデア」的なこと、「在るものを洗練する」ことは、
日本人がより得意とするジャンルだから。


「製品や、芸術も、仮の物で良い」というのもありがたい?
「見立て」「オマージュ」「リスペクト」という言葉がマーケティングのロゴになってしまった。




産業機械を重機というなら日常機械は、軽機になるのだろうか?
外的条件が厳しい中で使用される道具は、やわな物では困る。
しかし空調が完備され、鼠も虫もわかない部屋ならテンポラルなもので充分だろう。
(使い終わったら)捨てられやすい、いわゆるキャンプ用品的なもので充分なのだろう。




日本だけでは無く、世界中で20世紀の事物をオーバーホールすべきであるという気運が高まっている。
近代が裁ち落としたコスモロジー、タブー、ゲニウスロキ、ヴァナキュラー、自国文化の地層文脈、
それらは忘れられた手工業を掘り起こすのだろう。


マンデルブロー博士が提唱したフラクタルや、カオス、ファジー…という
今までユークリッド世界とは別の曖昧とされてきた現象を数式で解いていく試みも、
「手仕事」を科学していくのだろう。



作家であれ企業であれ、
「世界を醜くしようと思ってモノを作っているのでは無い」。
どんな人間であれ「美しさ」を求めているは間違いない。
「美しさ」とは何か?「美学」とは何か?
手仕事だろうが、量産品であろうが、
コトでもモノでも「普遍的な美」というものは存在しない。
美というものは、相対的にそう思うもので、その周囲や文脈でそれらが美しいと感じるだけである。
文化や、因習、宗教によって美醜の基準は大きく異なってしまう。


ロックフェラーの居間に置かれたクリスチーナの絵を見て、
「センスが良いね」と言う人はいるのだろか?


「私と私のネコの絵が大富豪の邸宅にかけられるなんて、とても想像できません。
アンディーは絵を売るとき、なんとむとんちゃくなのでしょう」
1952年1月 クリスチーナ・オルソン   ワイエスの妻ベッツィーに送った手紙より



澄 敬一